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父と母から受けた教育は根ついています。 - ロゴス進学ゼミナール

 新婚当時の父母の写真です。

母の懐妊がわかって将来に希望を持っている

二人の双眸は希望を宿しています。

父は東京の山の空襲で四谷の実家が全焼、

母も大阪大空襲で萩の茶屋の実家が全焼。

家を焼かれた二人が結婚したわけですが

それについて恨み言は一回も聞いたことはありません。

 私の母は大阪の第8連隊の連隊長をしてた乾隆吉の家で

祖母亡き後の変わりに主婦をしていた。

祖父の末娘として愛されて育ち学業では

常にトップを維持、

大谷高等女子学校では女子挺身隊として

大阪砲兵工廠に派遣され無線機のはんだつけが得意になったそうです。

戦後は阪大の八浜研究室の事務としても働いた経験がありました。  

 父は東京、神田の生まれで、坂本竜馬が修行した島田道場の

娘さんと父の姉の春子さんが同級生だったのでとてもわいがられた

といっていました。

関東大震災後は富士見ケ丘で都商会を営む祖父、

吉井卓爾の次男として育ち6番町小学校に超境入学、

麹町から集まる英才たちと学んだようです。

祖父が山階伯爵の本宅を借りて手広く商売を

やっていたことと、

もともと曽祖父常也が鹿児島の桜島にある月読み神社の宮司国生家

の出だったこともあり、

中学から開成へ進み常に優等生だった。

一高で柔道部に在籍、東大を受験したが、失敗し、

京大の文学部、西洋史学科に入学。

たまたま下宿先が医学部の教授の家で、

下宿生は父のほかは皆医学部の学生たちだった。

いろいろな体験、挫折があって科学的な学問を志し、

九大法学部に転入した。ところが赤紙が来て応召、

近衛師団に入営となった。しばらくして体調を崩して除隊。

そのうちに、B29による帝都爆撃が始まり、

内地より戦地の方が安全と考え、応召、今度は麻布3連隊に入営、

昭和20年4月8日戦艦大和の沖縄特攻の陽動作戦の一貫として

輸送船にのり玄界灘を渡りました。

北支派遣軍の機関銃部隊、観測部隊と勤め終戦後半年の抑留生活の後、

生きて帰国した。北支派遣軍の司令官が有名な根元中将でなたっから

シベリヤ送りになってたかもしれません。

九大に復学後、大学院に進み助手として大学に残り

学究生活を始めました。

子供たちに対する父の教育は童謡を流した後で、

自分の好きな音楽を蓄音機でかけたり、

気分が乗ったときによく軍歌を聞かせてくれました。

得意の水泳、柔道のお手本を子供たちに示して、

れができたら褒めることで、上手に子供の自主性を

引き出すものでした。粘土を買ってきてくれて目の前

で軍艦ができていくのを目撃した感動はまだ忘れません。

もったいなくて3日間はその粘土の軍艦はは崩せませんでした。

クレヨンを使って幼稚園の宿題の絵画作品を仕上げていたら、

途中から声をかけながら色あわせ教え木の幹をうまく重ね塗り

してくれたせいで絵は大好きのなりました。その後小学校、

中学校のとき描いた絵画はほとんどすべて優秀賞を獲得し学校の

玄関の真正面に常に飾られていました。小6のお正月新聞の

一面も飾りました。柔道の手ほどきを受けたときは、

魔法のように床に転がる自分が悔しくて30分間くらい息が上がるまで

戦い続けたことを鮮明に覚えています。

私の敢闘精神の原点は3歳の頃のこの経験にあったと確信します。

内向的な幼児であった私を散歩と称してよく大庭大宮に参拝して

くれました。イザナギの尊、イザナミの尊が祭神で有数のパワースポットであり、

出雲大社の原型がここにあるといわれてる社殿は国宝です。

神社参拝は今も私がやっています。長い影響力を持った

父の教育そのが今の私を形成してくれています。   

 母は窮地の私を救ってくれる人でした。

算数がうまくいかないときには、『あんたは知能指数は130あるのやから、

やればきっと出来るはずや』といって励ましてくれました。

困難に遭遇した時には『ほら、ちゃんとできたやんか、えらい、えらい』

と褒められたときのことや、励まされたときのことが蘇ります

。好きな食べ物をつくって励ましてくれました。秋の日に食べたぶり大根

が好物でしたので、実家にけるたびに黙って作っていてくれました。

私の好物だからといつまでも帰省の折に気合を入れて料理してくれて

いたのは母の死後、姉から聞いて初めて知りました。

今、妻が時々帰省する息子のための同じことをしてるので良

くわかるります。私が自分の生徒の勉強を指導することが大好きなのは

この母の思いや行動が強く影響しています。

『気は心やから◎◎して上げようね』といいながら親戚筋にさまざまな

贈り物をしていました。叔父の家のも八雲塗りの御屠蘇のセットが残っています。

人のために尽くす精神です。私人生最大のピンチを救ってくれたのも私の母です。

私が妻に結婚の約束をしながらもなかなか実行できない事情があったときに、

わたしの知らない間に妻に電話をかけてくれていました。

『今の健夫の苦境を救えるのはあんたしかいない。

どうか健夫と一緒になって支えてやってください』

と懇願してくれました。

そのおかげで私は妻にプロポーズすること無し結婚することができました。

当時、妻は非常にもてていて、この電話がなければ、あんたとは一緒に

なっていなかったといっています。

しかし。戦災で燃えてしまった母親の実家があった萩の茶屋の跡地で、

戦後『インディヤン』という洋食屋ができて繁盛しました。

その店主の下で右腕として活躍したのが妻でした。気焔はしっかり

した根っこに支えられていました。不思議な縁です。

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